死は風の如し

Death is like the wind – always by my side. (死は風の如し、いつも傍らにあるものよ)

Yasuo: the Unforgiven

病院という環境にいると死というイベントが身近にありすぎて、感覚が麻痺してくるというか、死に対して何も思うことがなくなってくる。探せばそこそこ死にそうな人間がいるし、目の前で死ぬ人間もいる。生きてはいるけど、事実上死ぬのを消極的に待っているだけの状態の人とか。普通に喋ってるけど、多分2,3ヶ月後には死ぬんだろうなこの人、みたいなのも。やはり年寄りが多くを占めるが、中にはまだ若い人もたまにいたりする。

で、以前こんな記事を書いたが、実は去年、ほぼ同時に祖父が二人とも死んだ。妹なんかは随分と悲しんでいたが、自分は葬式に行ってもあまり思うところがないというか、“そうか、とうとう死んだか” くらいの感想しか抱けなかった。病態的には二人共いつ死んでもおかしくないと思ってたので、単に来るべき時が来たのだな、と。

1年に1,2回しか会わず、会ってもそこまで話すわけではない、それくらいの関係性だった。父方の祖父については去年の春頃から急に体調を崩してきた。少し前から肺癌Stage3だったという話は聞いていた。癌で死ぬ時は大抵の場合、最後の数ヶ月で一気に悪くなる。癌の治療というのは癌の病巣部分を手術で切除出来るならば切除して、そこに再発防止のために他の治療を加えていくのが基本な感じだ。Stage3なので手術適応外で、化学・放射線療法とか一応やれたとは思うのだが、本人がもう満足してたんだろうな。積極的治療はしていなかった様に見えた。実際詳しい病状を聞いたりはまったくしていないので憶測でしかないが。
見舞いに行け見舞いに行けと父親から滅茶苦茶連絡が来て、1・2ヶ月に1回ほど、当直明けに車で往復3時間くらいかけて行っていたが、正直結構だるかった。死期を悟った老人が自らの思い出話をひたすら俺に聞かせてくる。エリクソンの老年期の発達課題だなこれ、みたいなことを聞いてて思っていた。自分の人生を回顧して受け入れ、自分の今までの道程を孫に伝える。聞いてる側は結構しんどかった、長いし話すのも遅いし、別に面白くはないし、当直明けだった。まあそれで本人達が少しでも満足してくれるなら一応ご機嫌取っておくか、みたいな感じだ。そう考えるとなかなか祖父孝行してたんじゃないか、俺は?

何故今更、丸1年前の話をするかというと、先日その祖父の初盆の集まり(1週早いが)があって、それがあまりにもクソだるかったのでその前置きみたいな感じである。というわけで次回に続く。

俺には感情がないーということを言いたいわけではない。どちらかというと感受性豊かだと思っていて、物語とか音楽とかに触れてると結構な頻度で落涙する。アニメやらゲームと違って、現実の死では、死そのものに意義というか、ドラマ性・エモさみたいなものを見出す猶予が基本的にほぼないってことなんだろう。

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